「優先席に座らない」のは「渇しても盗泉の水を飲まず」に近い

普段の移動で電車で座ることはめったにない。ましてや、優先席に座ったことは今までの人生でないことだ。

立っていた方が足腰が鍛えられる。吊革につかまっていると、腕全体に筋肉がつく。骨というものは負荷をかけないとどんどん弱っていくものだ。

一方、「優先席」の判断は個人の考えが分かれるところのようだ。最近、Xでは下記のような対立が目にされた。

  • 老人側 …… 優先席に若者が座ってスマホをいじっている。最近の若者の行動は嘆かわしいことだ
  • 若者側 …… 「優先」すべき人物がいない場合は座ってもいいだろう。老人の方こそわかっていない

老人側がその写真を掲載してしまったことで、盗撮騒ぎになって、自体がさらにややこしくなった。

私の意見としては、「別にどうでもいい」が本音。座りたければ座ればいいし、譲りたければ譲ればいい。だいたい、そういう「駆け引き」に巻き込まれたくない。

なぜ、こういう発想になるのか考えていたら、高校の国語の教師が卒業文集に掲載した言葉を思い出した。

「渇しても盗泉の水を飲まず」

陸機「猛虎行」

どうも、この言葉が胸の奥深くに残っているせいだとわかった。
「優先」という名前が悪い。しかも、窓には「優先」されるべき人物が具体的に書かれている。その中には「座りたい人」「疲れている人」との記述は無い。該当しないのに、どうしても座る気になれない。

上記の言葉に、「熱しても悪木の陰に息わず」と続く。ともかく、本来「優先」されるべき人のための席なのだから、該当しない自分が座るというのは、どうしても気持ち悪いのだ。

こういう発想は若い人、特に、「ゆとり世代」には到底理解できない感覚なのだろう。いや、信念を持たない日本人が陥りやすい思考のパラドックスなのかもしれない。

「空いていれば座っても良い」「優先される人だけ座るべき」

おそらく、ゆとり世代が終了しない限り残り続ける対立なのだろう。
おそらく、この対立を続けるような工作をし続ける方が、国家としても都合がいいのだろう。
そして、ゆとり世代を批判する老人達は、「カスハラ」として言論弾圧され、物を言えなくなり、やがて、戦争へと突入していくのだろう。

まあ、いい。戦争に行くのは若者なのだから。