テクノロジーによる「共感の強制」が孕む身体的リスクと生政治――産婦人科医の視点から――

昨今、企業の管理職研修や男子高校生への教育として「生理痛体験器(EMS)」が活用される場面が増えています。しかし、一人の産婦人科医として、私はこの「痛みのシミュレーション」が持つ暴力性と、その背後にある社会構造の変容に強い危惧を抱いています。

1. 医学的観点からの「体験」の不完全性

生理に伴う苦痛は、EMSが再現するような単なる「腹筋の収縮痛」に留まりません。実際には、プロスタグランジンの分泌による全身の炎症反応、ホルモンバランスの激変に伴う頭痛、吐き気、貧血、そして精神的な疲労感などが複合的に絡み合っています。 単なる電気信号による痛みの強要は、生理という複雑な生命現象を「耐えるべき物理的な痛み」へと矮小化(Trivialization)させてしまうリスクがあります。 このような不完全な体験は、真の理解を助けるどころか、「この程度の痛みなら我慢できるはずだ」という新たな無理解や、体験者への心理的トラウマを生み出しかねません。

2. 身体的不可侵性と「強制される共感」

本来、個人の身体は他者や国家から不可侵であるべきです。かつての軍事訓練(毒ガス訓練など)がそうであったように、外部から身体的苦痛を強制的に与えて「規律」や「共感」を植え付ける行為は、教育ではなく身体の支配に他なりません。 ミシェル・フーコーが提唱した「生政治(バイオポリティクス)」の観点から見れば、これは国家や組織が個人の生命や身体感覚を管理・統制の対象としている証左です。テクノロジーを介して「生理の苦しみ」を共有させるという美名の下で、個人の身体的尊厳が軽視されている現状を私たちは直視すべきです。

3. 「令和デモクラシー」と国家動員の影

歴史を振り返れば、大正デモクラシーにおける権利の拡張が、皮肉にもその後の国家総動員体制へと繋がっていった側面があります。現代の「女性優遇」や「生理体験の推奨」といった動きも、純粋な福祉的善意からだけではなく、国民全体の身体を国家の管理下に置き、将来的な有事(徴兵や動員)に備えた「地ならし」として機能している可能性を否定できません。 ポーランドにおいて、子育て支援(所得税全免除)が徴兵制の復活とセットで行われている事実は、支援という「恩恵」が常に「身体の動員」と隣り合わせであることを示唆しています。

4. 結論:真のヘルスリテラシーとは

私たちに必要なのは、痛みを機械で再現して強要するパフォーマンスではなく、個々人の体質や健康状態を尊重し合える論理的なヘルスリテラシーの共有です。 安易なテクノロジーの導入は、時に人間の尊厳を奪う「劇薬」となります。知的な読者の皆様には、この「共感の強要」という名の流行が、私たちの自由と身体の権利をどこへ導こうとしているのか、冷静に見極めていただきたいと切に願います。