世界平和を望むなら先ず「男性の安堵」を目指せ

教育

これまでは、平和のために、個人が犠牲になってきたように思える。

正確に言えば、

「私たちは、崇高な”平和”を目指しているのだから、多少(かなり多くという意味である)は、個人、特に”若手男性”は犠牲にしてもいいだろう。なんといっても、「尽くせ」と指導されているのだからwww」

もっと言うと、

「個人は犠牲にしてもいいから、”平和”(実質は、その個人をこき使う”愚直な庶民たる”自分たちの安寧)の実現を目指すべきだろう」

露骨に言うと、

「若手男性が、死のうが生きようが、貧乏になろうが飯を食えなくなろうが、結婚できなかろうが恋愛に破れようが、私たち”愚直な庶民”には関係ない。嫌なら死ねばいい」

という発想だったように思える。

これは、

「自分の安堵を願うならば、まず、世界の平和を願うべきでしょう」

という指導を根本にしていると、”愚直な庶民”たちは考えているようである。

・・・果たしてそうだろうか?これは、曲解なのではないだろうか?

というのは、世界は未だに全く以て「平和ではない」からだ。

これは、「21世紀は希望の世紀」と言われて、歌にまでなってきたことと反するのではないのか?

21世紀になった途端、いきなり「NYテロ」が発生したわけだし、一気に「戦争と紛争とテロの時代」に突入してしまった。

しかも、先の選挙では「歴史的な大敗北」「3連敗」だったではないか。

これは、”愚直な庶民”たちが、完全に間違えているからである。

「2014年に始まった”タイパ”による”実践”時間の決定的な欠如」はこの際横に置いておこう。