宗教勢力のたどり着くところとして、非常に興味深かったので、引用しておく。
結局の所、宗教が向かう先は「信者の犠牲」なのかと心が暗くなる。
なんとなく、「進撃の巨人」における「獣の巨人」を討ち取るための新兵たちの「突撃」を想起させる話である。
救済を述べておくと、本来、宗教というのは「信者の幸福」のために存在するのである。
「政治権力の拡大」のために信者の「自己犠牲」を洗脳し利用してはいけないと考える。
信者が幸福になれば、自然と社会への働きかけが進むことになろう。
そのあたりが、「歴史的な大敗北」に沈んだ勢力の今後25年間の課題となる。
今一度、散々言われてきた話を反芻すべきだろう。
賢い人というのは、社会のルールを尊重し、それに従う者をいうのである。よくよく、社会の常識というものをしっかりと理解するべきである
宗教指導者(記事では法学者)が信者の行動にどこまで影響を及ぼすべきか介入していいのか思索を重ねているところなので、イスラム社会(イスラム教シーア派の社会構造)は、非常に示唆に富んでいると考える。

シーア派信徒は「マルジャエ・タクリード(模倣の源泉)」と呼ばれる法学者の最高権威に日常生活の判断を仰ぐ。マルジャエは1人とは限らず、信徒は従うマルジャエを自分の意思で選ぶ。イスラム世界の多数派であるスンニ派とはこの点で違う。
マルジャエだった革命の指導者ホメイニ師はイスラム法の解釈を日常生活から政治権力の行使に広げた。ホメイニ師の呼びかけはイスラム教の聖職者を通じて信徒を動員する力となり、パーレビ王制下で鬱積した不満に火をつけた。
シーア派宗教界では聖職者が政治にかかわるべきではないと主張する高位法学者も少なくなかった。
宗教的権威を欠くハメネイ師が頼ったのが革命防衛隊だった。革命防衛隊は国軍と異なる。最高指導者直轄の革命体制護持のためにデモ鎮圧などを行う暴力装置だ。その力は次第に肥大化し、政治権力だけでなく経済活動にも深く根を張るようになった。
その連絡役として最高指導者事務所を仕切ってきたのがモジタバ師だ。国民は高位法学者の言葉をテヘランや宗教都市コムなどの金曜礼拝で聞く。
信徒の犠牲を「天国への扉」と洗脳し、身体的残虐性をあらわにする

「殉教は神の恩寵(おんちょう)」。殺害された前の最高指導者ハメネイ師は、信仰のために命を捨てることの大切さを繰り返し説いてきた。2020年には米軍攻撃で殺害された革命防衛隊のカリスマ司令官、ソレイマニ司令官の自己犠牲を熱烈に称賛した。
自己犠牲の精神は、イスラエルから殺害を警告されながら後継の座に就いた息子のモジタバ・ハメネイ師にも確実に受け継がれる。軍や革命防衛隊の兵士らに広く、戦いに身を投じる尊さを呼び覚ました可能性もある。
だがイランは都市部の世俗派と地方の信心深い人々の間に深い溝の走る二極化社会だ。軍の兵士や強硬派の聖職者には、教えのために命を捨てることをためらわない人々が一定数存在する。
その一端が明らかになったのが1980年からのイラン・イラク戦争だ。「天国の鍵」を胸に下げたイランの少年兵たちが手を取り合い地雷原を渡る姿は、敵のイラク軍に大きな衝撃を与えた。対イラク戦争が終わったとき多くの若者が涙を流して悔しがった。「天国への扉が閉じられてしまった」
シーア派には(イマーム)フセインの死を悼むアシュラの儀式があり、毎年、黒装束の信者が通りを歩き鎖で自らの体を傷つけて苦しみを追体験する。通りが黒く血に染まる儀式の光景は衝撃的だ。
「天国の扉が閉じる前に」。指導部が説く殉教の物語(ナラティブ)を信じ多くの若い兵士が「栄光」に身を投じるのは避けられないだろう。それは超大国・米国とイランの戦いが抱える非対称性の究極でもある。
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